一輪奏

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 御出世より一五九一年六月、肥後天草下島・河内浦(かわちうら)。

 月の初めから雨が降り続き、領主天草久種の好意で立派に作られたコレジオの中はじめじめとしていた。床板も障子紙も湿気を吸ってしっとりと感じられる。木製の印刷機も例外ではなく、撫でると水がにじみ出てきそうな感触になっていた。
 刷ったところで墨が乾かないというので、ドラードはここ数日印刷機の運転を止めている。取っ手を回す音は響かず、庭を潤す外の雨音が聞こえるばかりだった。
「小休止もあっていいじゃないか。その分製本作業がはかどる」
「そう思うことにしましょう」
 バレトの言葉に、ドラードが答える。写本の書写作業をすべて終えたバレトは、飾り模様に墨を付けて、判をつく要領でページ一枚一枚に押していた。つる草文様をハートや菱形に図案化したもの、IHSの紋章につる草を絡めたものなど十種類以上ある。遣欧使節が印刷機や活字の母型と一緒にリスボアで購入し、日本に持ち帰ってきたものだ。
 室内では普段印刷に従事している同宿たちが、「サントスの御作業」を黙々と製本していた。折丁を順番通りに並べ、糸でかがり、背バンドを付け、革の表紙と背表紙を付ける。日本文字の「どちりなきりしたん」は和綴じだったので、ハビアンは洋綴じの作業をじかに見るのは初めてだった。
「パードレがたがお持ちの書物はこうやってできていたんですね」
「そういうことです。ほら、一冊仕上がりましたよ」
 製本したての「サントスの御作業」を、ドラードがハビアンに手渡した。滑らかな革が手に吸いつく。ページをぱらぱらと繰ると、新しい墨のにおいが漂った。
 ハビアンの目は無意識にある挿話を探した。「サントスの御作業」は三百ページ以上あり、一冊が巻一と巻二に分かれている。巻二も終わり近くまで来たところで、ハビアンの手は止まった。
〝守護はこのビルゼン(処女)の嬋妍妖艶(せんけんようえん)なるを見て、さすがあはれと思ひ、またビルゼンを近づけ奉って申さく、『いかに心こはき汝、さりとてはイドロス(偶像)を拝み、この苦しみを逃れよ』と〟
〝たとひ天魔波旬(てんまはじゅん)は新たに現前して障りをなすとも、甘露のイエズスとわが中をば裂け奉ることかなふべからず〟
「よし、できた。ドラード、これも製本を頼めるかな」
「分かりました」
 写本の模様付けまで終えたらしいバレトが、紙の束をドラードに手渡す。
〝色身(しきしん)をば汝の手に渡し、アニマ(魂)のオンタアデ(意志)はイエズスの御手に捧げ奉れば、ふたたび改易すべからず〟
 バレトは椅子から立ち上がって一息つき、ハビアンが「サントスの御作業」にじっと目を落としているのに気が付いた。
「随分熱心に読んでるな」
「この章はちょっと……思い入れがあるものですから」
「何の章?」
「サンタ・オラリヤです」
 バレトが怪訝な顔になった。
「へえ。なんでまた」
 エウラリアとも呼ばれるこの聖人は、キリスト教公認前のローマ帝国、現在のスペイン西部メリダで偶像崇拝を拒んで処刑された乙女である。時にわずか十三歳だったと伝わる。
「ロレンソ殿が辻で語っておいでだったのです。私がまだ坊主(ボンゾ)だった頃、たまたまそこへ通り掛かり、ロレンソ殿の語られるサンタ・オラリヤ伝を聞きました。それが頭から離れず……洗礼を受けたのはそれから間もなくです」
「ロレンソというと、総協議会に出ていた盲人かい? なるほど、彼がお前を網に掛けた漁師というわけだ」
「ええ、まあ。しかし不思議なものです。あの時、私はロレンソ殿の語りの意味が分かったわけではありません。聞き慣れない言葉も多かったのに、なぜか引き込まれました。まるでずっと以前から、口のあいた空の袋を持っていて、その袋に水がするすると注ぎ込まれていくような……何の不自然さもなく」
 ちょっと考えて、バレトが口を開いた。
「メリダのオラリヤもローマ時代に迫害されて殉教した聖者だ。聖ファビアヌスのようにね。共通点はなくもない」
「ええ、それに……ロレンソ殿はその時、私が『雪を背負っている』とおっしゃいました」
「雪を、背負う? 何だそれは」
「分かりません。ですが、ひとこと声を掛けただけの私にそう言ったのです。ロレンソ殿は何かを私の中に見たのではないかと思えるのですが」
 ハビアンは「サントスの御作業」に視線を戻した。オラリヤは過酷な拷問に遭っても信仰を曲げずに息絶える。傷だらけのなきがらは見せしめのため宙吊りにされた。
“御主(おんあるじ)のご計らいを以て白雪(はくせつ)大きに降(くだ)り、それを以て御色身の汚れを浄め、却ていつくしくなりたるものなり”
 雨は弱まったかと思えばまた強くなる。天が呼吸をしているかのように、それが繰り返されていた。
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by stan-nak | 2014-03-09 00:41 | 小説「海からの風」 | Comments(0)

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