一輪奏

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近衛帝

このえてい : 保延5(1139)年生まれ。本名は体仁(なりひと)。父は鳥羽院、母は藤原得子(美福門院)。姉に叡子、暲子(八条院)。妹によし子(高松院)。崇徳院、後白河院は異母兄。生後3ヶ月で立太子し、保延7年12月7日、3歳で即位して第76代天皇となる。后に藤原呈子(九条院)、藤原多子。体が弱く、久寿2年に病没。享年17歳。

 ◇ ◇ ◇

 保元の乱を語る上では外せない人ですが、彼自身が何か行動しているわけではなく、人物像の手がかりはなかなかありません。

 母親の得子を鳥羽院は溺愛しており、彼女が産んだ子供は2人までが女児だったため、3人目を懐妊したときには男児誕生を願って懸命に祈祷をします。(すでに璋子との間に顕仁と雅仁がいるんだから、これ以上男児いらないだろ!と突っ込みたくなりますが、男の子が生まれないことには得子を女御の位につけてやれないんですね。)その甲斐あってか、見事男児が誕生。鳥羽院はこの子をすぐにでも天皇にしてやろうと、今上帝である長男・顕仁の退位を画策します。詳しくは「崇徳院」の項に書いたので割愛しますが、鳥羽院の得子への盲目の愛ゆえに、崇徳帝は父にだまされて譲位させられてしまったのです。

 さて先帝の恨みを買いながらも、父の絶大な後ろ盾を得て体仁は即位します。「今鏡」によれば賢く大人びた子で、泣きわめいたりすることはなかったそうです。そして結婚適齢期(といっても12歳ですが)になるや、摂関家からの嫁の差し出し合戦が勃発。弟の左大臣・藤原頼長が姪の多子(まさるこ)11歳を養女にして嫁がせれば、兄の関白・藤原忠通も負けじと呈子(しめこ)16歳を養女にして妻に差し出します。このように有力貴族が娘を(実の娘がいなければよその娘を養女にしてでも)天皇に差し出すのは、一にも二にも男児を生ませるため。その男児が即位すれば、自分は天皇の外祖(母方の祖父)ということになり、絶大な発言権を得られるのです。

 ところが近衛帝は体が弱く、期待された男児どころか子供は一人ももうけずに、寝込むばかりの毎日。「今鏡」には「御目を御覧ぜざりければ…」とあり、何の病気かは分からないものの盲目かほとんどそれに近い状態になり、年中行事にも出なくなってしまいました。そして遂に、17歳という早すぎる死を迎えます。

 「今鏡」によれば、(母親に似たのか)容姿は整っており、人柄も良く親しみやすい性格だったとのことです。特に藤原忠通と気が合っていたようで、忠通が弟の頼長に氏長者を奪われたことを気にかけていました。また和歌の才もあり、当代風ではなく古風な歌をよく詠んでいたそうです。そんな近衛帝が病床にあって詠んだ歌が、これ。

 虫の音の弱るのみかは過ぐる秋を惜しむ我が身ぞまづ消えぬべき

 秋が過ぎれば虫の鳴き声は聞こえなくなるが、それを惜しむ私のほうが(虫の音が聞けなくなるよりも)先に息絶えてしまうのだろう…という、悲しげな歌。虫の音に着目しているのは、自身の視力が衰えていたこともあるんでしょうね。感性は繊細だけどやや気弱な男の子、という感じがします。

 そして近衛帝が世を去ったあと、熾烈な後継争いが勃発するのです。
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by stan-nak | 2013-04-19 22:39 | 人物考―宮廷 | Comments(0)

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