一輪奏

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藤原璋子(待賢門院)

ふじわらの たまこ: 康和3年(1101年)生まれ。実父は藤原公実(きんざね)、養父は白河院。17歳で鳥羽天皇の中宮となり、長男・顕仁(崇徳院)、次男・君仁、三男・通仁、四男・雅仁(後白河院)、五男・覚性法親王、長女・統子(上西門院)を産む(君仁は足に障害があり、通仁は盲目で、早くに亡くなった)。久安元年(1145年)没。

 父の公実が1107年に亡くなったとき、璋子はわずか7歳。保護者を失った少女を養女として育てたのが、公実といとこ同士だった白河院でした。璋子の実家の閑院流は後三条天皇、堀河天皇の后を輩出して、王家との血のつながりを深めつつあったのです。(詳細は「閑院流」の項目に。)

 成長した璋子に良い縁談を世話してやろうと、白河院が選んだ相手は摂関家の長男・藤原忠通。このとき、忠通の姉・勲子と、白河院の孫の鳥羽帝の結婚も同時に進められていました。ところが、勲子と忠通の父である忠実がこの2組の婚儀に難色を示します。

 というのも、璋子の父・公実はかつて忠実の摂政就任を阻もうとした人物(詳細→「気がつけば、院政」)。その娘を摂関家に迎えるのに気乗りがしなかったのは不思議ではありません。さらに、忠実は璋子のことを異性関係のだらしない女性だと思っていたらしく、日記「殿暦」で璋子と藤原季通が密通していると記し「乱行の人」「奇怪不可思議の女御」と非難しています。こうしたマイナス要因から、忠実は勲子・鳥羽帝、忠通・璋子の結婚を取りやめたのでした。

 可愛い娘の婚儀をふいにされた白河院は頭にきたことでしょう。代わりに璋子を鳥羽帝の后につけて閑院流を外戚とし、摂関家の外戚復帰を困難にするという報復行為に出ました。鳥羽帝の生母・苡子(いし)は前述のように閑院流出身で、璋子の父・公実ときょうだいですから、璋子と鳥羽帝はいとこ同士です。

 入内から2年後の1119年には長男・顕仁が誕生。5歳で即位して崇徳帝となりますが、成人して独自の意思を示し始めていた鳥羽帝が目ざわりになったという白河院の意向による譲位でした。璋子は国母の地位についたものの、幼い天皇が形だけ据えられて、実権を握るのは白河院。蚊帳の外に置かれた夫・鳥羽上皇は情けないやら悔しいやら、という状況でした。一方で璋子は白河院に可愛がられて育ったのですから、手厚く遇されていたことは想像に難くありません。発言力を奪われた鳥羽院は、妻の権勢を苦々しい思いで見ていたのではないでしょうか。

 しかし、強権を振るった白河院が1129年に世を去ると、情勢は変わって行きました。1134年には鳥羽院が摂関家の勲子(泰子と改名)を后に迎え、さらに藤原得子のもとに通い始めます。1141年、得子が産んだ長男・体仁の即位のために、璋子の子である崇徳帝は強引に退位させられ、院政の権利まで否定されてしまいました。鳥羽院の寵愛を得て皇后に立った得子に対し、後ろ盾を失った璋子は明らかに劣勢でした。

 1142年に出家した璋子は、3年後に死去。45歳でした。この11年後、実の息子である崇徳院と後白河帝が皇位をめぐって衝突し、流血の惨事となるのです。

 待賢門院のイメージは、ちょっと影ある女性。端正な顔立ちですが、感情の起伏が表に出ないミステリアス美女です。2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」では、壇れいさんが演じていました。

 ちなみに璋子は、「二代の后」藤原多子の大叔母にあたります。美形の血筋だったんでしょうね。
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by stan-nak | 2013-04-19 20:55 | 人物考―宮廷 | Comments(0)

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