一輪奏

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9 文覚流されの事

 ちょうど院の御所には、太政大臣藤原師長が琵琶を弾き、朗詠し、按察大納言源資賢が拍子を取り、風俗、催馬楽(さいばら)を歌っていました。資賢の息子で右馬頭の資時、四位の侍従・藤原盛定が和琴をかき鳴らし、今様を歌い、御所の中は雅な音楽が流れて実に興趣ある宴となっていました。大の今様好きで知られる後白河院も音楽に合わせて歌い始めます。

 そこへ文覚が大声を張り上げて勧進帳を読み上げたので、楽器の調子が狂い、拍子も乱れてしまいました。
「いったい何者だ」と怒る後白河院。若い従者たちが文覚を捕らえようと走り出ます。中でも源資賢の息子の資行が、
「何をわめいている、出て行け」
と言いますが、文覚は
「高雄の神護寺に荘園を一ヶ所寄進されない限り、文覚は出て行かん」
と言って一歩も動きません。資行が近づくと、文覚は勧進帳を持ち直して、資行の烏帽子をばしっと打ち落とし、拳を握って胸を突いたので、資行は仰向けに倒れてしまいます。烏帽子を落とされ、あたふたと床の上へ駆け上がる資行。
 さらに文覚は懐から、馬の尾で柄を巻いた氷のような刃の刀を取り出し、近づく者を突こうと待ち構えます。左の手には勧進帳、右の手には刀を抜いた姿は、左右の手に刀を持ったよう。公卿殿上人も「どうしたことだ」と騒ぎ、宴は大荒れに荒れてしまいます。

 そこへ信濃国の安藤右宗が、「何事だ」と太刀を抜いて走り出ます。待ってましたとばかりに飛びかかってくる文覚を、斬り捨てては良くないだろうと思った右宗は、文覚の右の肩をしたたかに打ちます。打たれてひるんだ文覚に、太刀を捨てて組み付く右宗。力自慢同士の2人は、互いに上になったり下になったりしながら転がり、取っ組み合いになります。

 文覚はさんざんに打ちすえられて門外に引きずり出され、庁の下部(ちょうのしもべ)に引き渡されます。しかし、なおも立ち上がり、御所に向かって、
「寄進をなさらないというのか。これほど私に辛い目をお見せになるとは。いつか思い知らせて差し上げよう。この世は煩悩と苦しみに満ちている。天皇や法皇といえども、その苦難を逃れることはできない。前世で善行を積んだ果報で帝位にあっても、黄泉に旅立った後は地獄の獄卒の責めをお避けになることはできないものを」
と、躍り上がってののしります。「とんでもないことを言う坊主だ」と人々はおののき、文覚は牢に入れられてしまいました。資行は烏帽子を落とされた恥ずかしさで、しばらくは出仕もできない落ち込みよう。また安藤右宗は、文覚を取り押さえた褒美として右馬允に昇進しました。
そのころ、美福門院が逝去したので大赦があり、文覚は釈放されます。その後も文覚は勧進を続け、
「この世の中は、天皇も臣下もみな滅んでしまうだろう」
などと恐ろしいことを言って回ります。そのため、「こんな坊主を都に置いてはおけない」ということになり、文覚は伊豆に流されることになりました。

 当時の伊豆守は、源頼政の長男の仲綱でした。東海道から海路で文覚を護送するように命じられた役人たちは文覚に、
「これは検非違使庁の役人の習慣なのですが、このような場合、えこひいきもするものです。どうです、お坊さん。これほどの大きな事件を起こして、遠い地へ流されるというのに、知り合いはいらっしゃらないのですか。食べ物や着物のようなものをお求めなさい」
と勧めます。
「そんなことを頼める知り合いはいないが、強いて言えば東山の辺りにいる。そうまで言うなら、手紙を書こう」と文覚が答えたので、役人がその辺の適当な紙を文覚に渡すと、「こんな紙で手紙が書けるか」と突き返されてしまいます。それならばと、上質の和紙を持ってこさせます。すると文覚は笑って、「この坊主は字を書けんのだ。お前らが書け」と言い、役人が口述筆記することに。

 いわく、

「文覚は高雄の神護寺を修理しようという志を立て、寄付を集めて回っていましたが、このような君主の世に巡り合って、願いは叶えられそうもありません。牢に入れられたばかりか、伊豆へ流刑にされます。遠い道のりです。食料などをこの使いにお渡し下さい」。

 役人は文覚の言うとおりに書き、「これをどなたにお渡しすればよいのです」と尋ねると、文覚は「宛先は清水寺の観音へ、としておけ」と答えます。「ご冗談でしょう」という役人に、「私は観音を深く信仰しているのだ。それ以外に用事を言う者などあろうか」と答える文覚。

 文覚一行は伊勢の国の阿濃(あの)の津から舟で伊豆へ向かいますが、遠江の天竜の灘にやって来たとき、にわかに強風が吹き、大波がうねり、舟が転覆しそうになります。漕ぎ手たちはなんとか持ちこたえようとしますが、波風があまりにも強いので、ある者は観音の名を唱え、ある者は念仏を唱えます。そんな中、文覚はこれを全く気にせず、いびきをかいて寝ていましたが、何を思ったか、もう最後だと思われたとき、がばと起き上がり、舟の舳(へさき)に立つと、
「竜王はいるか、竜王はいるか」
と大声を上げます。そして、
「これほどの大願を起こした聖(ひじり)の乗った舟を、どうして危険な目に遭わせるのだ。今に天罰が下るぞ」
と言うと、そのおかげか、程なく波風は静まり、舟は伊豆に着くことができたのです。

 京から伊豆に着くまでは、あちこちの浦や島を伝って行ったので31日かかりました。文覚はその間、「私は高雄の神護寺を修理するまでは死ねない。もしこの願いがかなわないのならば、私はこの道中で死ぬだろう」と宣言し、断食を決行しました。しかし到着まで、全く気力は衰えなかったのです。

 ◇ ◇ ◇

 院の御所に乱入して大騒ぎを起こした文覚、伊豆へ流されてしまいました。この配流地が伊豆というのが、大きな意味を持つことになります。

 安藤右宗と文覚の乱闘シーンは、平家物語が得意とする歯切れの良い短文の連続で、荒々しい取っ組み合いの雰囲気が伝わってきます。ぜひ原文で読んでほしいところです。

 「安藤武者、斬っては悪しかりなんとや思ひけん、太刀のむねを取り直し、文覚が刀持ったる右の肘(かひな)をしたたかに打つ。打たれてちっとひるむところに、『えたりや、をう』と、太刀を捨ててぞ組んだりける。文覚下に臥しながら、安藤武者が右の肘をしたたかに突く。突かれながらぞ縮(し)めたりける。互に劣らぬ大力、上になり下になり、転(まろ)び合ひけるところを、上下寄って、賢顔に、文覚が動(はたら)くところのぢやうを拷してげり。」

 「庁の下部」という言葉が出てきますが、「庁」は「検非違使庁」の略。「下部」は「かぶ」ではなく「しもべ」と読み、「雑用を務めた下級役人」という意味です。

 文覚は美福門院逝去により一時釈放されたことになっていますが、これは虚構。美福門院は平治の乱の翌年、永暦元(1160)年に亡くなっており、治承3(1179年)より19年も前です。(平家は時々、こういう虚構をしれっと言います。)

 藤原師長も源資賢も、治承3年のクーデターで配流されてなかったっけ、と思った方、素晴らしい記憶力です。この「文覚流されの事」は同じ治承3年でも3月のエピソードで、クーデターは同年11月(巻三「法印問答の事~法皇御遷幸の事」)。ですから師長も資賢もまだ宮廷生活を謳歌していますし、後白河院も幽閉されていません。

 「文覚の荒行の事」で常人離れしたパワーを発揮していた文覚は、ここでも大しけを静めるという超人的な力を見せます。海が荒れ狂っている中でいびきをかいて寝ていたという描写と相まって、文覚の豪胆ぶりを伝えています。
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by stan-nak | 2013-04-12 14:20 | 平家物語 巻五 | Comments(0)

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