一輪奏

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39 牛若奥州下りの事

 清盛は常葉を愛妾として囲い、自邸の近くに住まわせ、足繁く通うようになりました。常葉が義朝との間にもうけた今若、乙若、牛若の3人は命を救われ、流罪になることもありませんでした。一番上の今若は出家して全済と名乗り、武芸に優れた僧となったので悪禅師と呼ばれました。真ん中の乙若はやはり出家して円済と名乗りました。

 末の牛若は、鞍馬寺の阿闍梨蓮忍(あじゃり れんにん)の弟子となり、遮那王(しゃなおう)と名を変えました。そして11歳の時、源氏の系図を目にし、自分が清和天皇から数えて10代目の末裔であり、父は源義朝であることを知ったのです。このときから遮那王は、平家を滅ぼして父の敵を討つことを誓い、昼は学問をし、夜は武芸に励み、天狗に兵法を習ったと言われています。そのおかげか、常人とは思えない足の速さや跳躍力を身につけたのです。

 母の常葉は清盛との間に女子1人をもうけましたが、その後は藤原(一条)長成と再婚しました。

 蓮忍は遮那王に「出家なさい」と勧めますが、遮那王は「兄2人が僧になったのでさえ無念なのだから、私は簡単に出家などしない。頼朝兄上に相談して決める」と言い、出家しようとしません。

 その頃、吉次という奥州の金(こがね)商人が、上京する時には必ず鞍馬に立ち寄っていました。遮那王は吉次に会い、
「私を陸奥の国へ連れて行け。知り合いがいるから、連れて行ってくれれば礼に金を与えよう」
と頼み込みます。
「お連れするのは簡単ですが、寺のお坊様がたがお止めするでしょう」
と言う吉次に、
「私がいなくなったって、誰も気にしまい」
と答える遮那王。「それならば」と、吉次は遮那王を陸奥へ連れて行くことを約束します。

 陸奥へ出発する日、吉次は1人の侍を連れて鞍馬にやってきました。遮那王が
「お前はどこの国の、何という者だ」
と問うと、
「下総の出で深栖三郎光重の子、陵助(みささぎのすけ)重頼と申します。源氏の侍でございます」
と答えます。
「源氏の誰に仕えているのだ」
とさらに問う遮那王に、
「源頼政どのに」
と答える深栖。遮那王は深栖に、
「私は前左馬頭義朝の末息子だ。母も師匠も出家せよと言うが、思うところがあって、これまで出家せずに暮らしてきた。しかし京での生活は窮屈だ。私を具して、まず下総まで連れて行ってくれ。そこから吉次を連れて、奥州へ行こうと思う」
と詳しく話をします。深栖は承知し、承安4(1174)年3月3日の暁、遮那王は16歳にして鞍馬を出て、東国へと向かったのです。

 その夜、鏡の宿に着いた遮那王一行。夜もふけたころ、遮那王は自ら髻(もとどり)を結い、懐から烏帽子を取り出して被ります。
 朝になり、烏帽子姿の遮那王を目にした深栖は
「ご元服なさったのですか。お名前は何と」
と尋ねます。遮那王は
「烏帽子親もいないから、名は自分でつけた。今日から源九郎義経と名乗る」
と答え、ここに源義経が誕生しました。

 黄瀬川までやって来た義経一行。義経は北条時政に会おうと言いますが、深栖は
「私の父は北条殿にお目にかかることができますが、私はまだ対面できる身ではありません。後日、お手紙を出されると良いでしょう」
と言います。

 義経一行はこの地に1年ほど隠れ住みますが、義経は武勇に優れ、山賊や盗賊を次々と退治して評判になります。
「錐は袋に入れても、袋を破って飛び出すと言います。このことが平家に伝わるかもしれません」
と心配します。
「ならば奥州へ行こう」
と義経は判断し、その前に伊豆にいる兄・頼朝にあいさつをしに行きました。

 「私がここにいることが平家の耳に入っては、兄上のためにもよくないでしょうから、奥州へ行こうと思います」
と言う義経に頼朝は、
「上野の国の大窪太郎の娘が、奥州の藤原秀衡の郎等、信夫小大夫という者との間に二人の男子をもうけている。すでに未亡人だが、後家分の領地を持って暮らしているそうだ。それを訪ねていくといい」
と教えてくれ、大窪の娘に手紙を書いてくれました。

 奥州にやって来た義経一行。大窪の娘に会うと、彼女は出家して尼になっていました。彼女は
「私には佐藤三郎次信、佐藤四郎忠信という二人の息子がおります。次信は上戸、忠信は下戸ですが、お役に立つと思いますので、どうぞ召し使って下さいませ」
と、2人を義経の従者として差し出します。

 多賀の国府に着き、義経は藤原秀衡に対面します。秀衡は、
「この人を手厚くもてなせば、平家の耳に入り、問いただされるかもしれない。しかし追い返せば、武名に傷が付く」
と考え、
「しばらくここにお隠れなさい。あなたのように見目良い若者なら、姫を持つ者が婿に取りたがり、子のない者は養子にしたがることもあるでしょう」
と、義経を迎え入れます。
「金商人を説得して、ここまで連れてきてもらったので、その者に何か褒美をやりたいのですが」
と義経が言うと、秀衡は金30両を吉次に取らせました。

 この道中、義経一行は上野の国の松井田という所で一夜の宿を取りました。その家のあるじを見ると、ずいぶんと勇ましく力もありそうだったので、後に平家打倒のため兵を挙げた際、義経はこの男を部下として連れて行きました。この男は伊勢三郎といい、義経は
「私が最初に元服させた者だから、『義』の字が盛んになるように」
として、義盛と名付けたのでした。

 ◇ ◇ ◇

 牛若丸改め義経の関東下向と奥州行きでした。鞍馬から関東、奥州まで舞台が移動している長い章段です。

 まずは常葉のその後ですが、清盛の愛妾となり、娘をもうけたことが明かされます。これが平家物語にも名前の出てくる「廊[﨟]の御方」(ろうのおんかた)です。

 深栖に対する義経の話し方は、流布本は語尾がすべて「候」で、今で言う「ですます調」なのですが、古態本は「候」を全く使っていないのでそれに合わせました。深栖に会った時点で義経は自分が義朝の子だと知っているので、郎等に対して「候」を使う流布本はやや不自然に感じます。

 この章段、地理的にだけでなく時間的にも大きく動いていまして、一気に16年が過ぎたことになっています。ですので、前の章段で伊豆へ出発した14歳の頼朝はここではもう30歳。清盛はすでに出家し、時の天皇は高倉天皇、その中宮は清盛の娘の徳子、という時代です。

 出てくる地名ですが、まず黄瀬川は静岡県の伊豆半島の付け根当たりを流れる狩野川の支流です。次の多賀は現在の宮城県多賀城市で、律令時代に城が置かれました。そして義経が伊勢三郎と出会った上野国松井田は、現在の群馬県安中市です。かつては「松井田町」という自治体がありましたが、平成の大合併で安中市となりました。
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by stan-nak | 2013-04-10 13:52 | 平治物語 | Comments(0)

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