一輪奏

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8 三井寺炎上の事

 【三井寺炎上の事】

 高倉の宮の謀反に三井寺(園城寺)と南都(興福寺)が加担したことから、この2つの寺が朝敵とみなされます。

 5月27日、左兵衛督知盛、薩摩守忠度以下一万騎あまりが三井寺を攻撃。僧兵約千人が防戦し、戦いは夜にもつれ込みます。暗くなったことから平家軍は寺に火を放ち、多くの仏堂が次々と焼失。

 「橋合戦の事」で奮戦した筒井浄妙明秀を含む三十人余りの僧が捕らえられ、流罪に処されます。

 「かかる天下の乱れ、国土の騒ぎ、ただ事とも覚えず。平家の世の末になりぬる先表やらん」と人々は言い合ったのでした。

 * * *

 知盛&忠度の三井寺追討でした。

 本文には5月27日とあって、高倉の宮の謀反から4日後ということになっているのですが、注釈によれば実際には同年12月11日のことだそうです。(確かに、大軍を4日で集めるのは難しそうです。一万騎というのはさすがに誇張だと思いますが)

 「愚管抄」にも、「南都を追討すべしという意見が公卿の間でも出されたが、九条兼実がそれを押しとどめた」とあるので、とりあえず一旦は様子見ムードになり、その後改めて追討が決定されたということでしょう。

 しかし重衡の南都攻め(巻五)は後々まで非難されて本人もものすごい自責の念にかられているのに、知盛と忠度の三井寺焼き討ちでこの2人がこのあと誰かから責められることって、全くないのです。(しかも南都焼き討ちはわざとではないのに対して、三井寺は意図的に焼いている)。これが不思議。

 ちなみに、覚一本では三井寺攻めの大将も重衡ということになっているのですが、それにしたってその後重衡が「三井寺を焼いた」ことで非難されることは一切ないのですから、あの南都攻めがなぜあそこまで重衡を苦しめることになったのか、ちょっとよくわからない。(延暦寺の僧兵も清水寺を焼いていることを考えると、重衡一人が責められる理由がますますないような気がしてきます。)
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by stan-nak | 2013-04-08 23:35 | 平家物語 巻四 | Comments(0)

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