一輪奏

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6 若宮御出家の事

 平等院での戦闘は平家方の勝利に終わり、5月23日の夕方、平家軍は高倉の宮(以仁王)・頼政らの首とともに六波羅に帰還。

 さっそく首実検が行われますが宮の顔を知っているものが少なく、前年に宮の病気の治療をした医師の定成(さだなり)が呼び出されますが定成は体調不良。そこで、宮と親しい仲にあったある女官が探し出されて六波羅に呼ばれ、首を確認させられます。

 「御子あまた産み参らせなどして、さしも御契り浅からざりしかば、なじかは見損じ奉るべき。ただ一目見参らせて、袖を顔に押し当てて、涙を流しけるにぞ、宮の御首とは知ってげる。」

 平知忠(知盛の子)の首実検を思い出させる、悲劇的なシーン。顔があまり知られていない人の首実検って、必然的に親兄弟や妻・恋人といった近しい人がすることになるんですが、それってすごく残酷なことですね。

 ちなみに「愚管抄」では、宮の学問の師だった宗業(読みは「むねなり」?違っていたらすみません)という人物が首実検したとあります。

 さて謀反を起こした本人たちは亡くなりましたが、それで事後処理が終わるわけではありません。高倉の宮には7歳の息子と5歳の娘がいました。女の子はお咎めなしですが、男子は謀反人の子であれば、幼くても処断の対象になるのです。

 この兄妹の母親は八条院()に使える女官で、三位の局といいます。

  八条院…鳥羽院と美福門院の娘。本名を暲子(あきこ)といい、近衛天皇は実弟、崇徳院・後白河院は異母兄弟にあたる。生没年は 1137(保延3)年~1211(建暦1)年なので、治承4年の時点では44歳(数え年)。

 清盛は弟の頼盛を八条院の元に遣わして、「姫宮の御事は申すに及ばず。若宮をば、とう出だし参らさせ給へ」と要求します。

 これに対し、「かかる聞こえのありし暁(あかつき)、御乳(おんち)の人なんどが、心をさなう具し奉りて失せにけるにや、全くこのところには渡らせ給はず」と返す八条院。

 仕方なく六波羅へ戻ってこの旨を清盛に報告する頼盛。しかし清盛はそれを信用しません。

 「なんでふその御所ならでは、いづくへか渡らせ給ふべかんなるぞ。その儀ならば、武士ども参りて捜し奉れ」と命じます。

 そもそもなぜこの使いが頼盛だったかというと、八条院の乳母である宰相殿という女官のもとに頼盛が足繁く通っていて、その縁で八条院も頼盛に好感を持っていたからなのです。しかしこの一件で八条院が守ろうとしている高倉の宮の息子を頼盛が迎えに(つまり殺しに)来たため、彼女は頼盛を疎んじるようになってしまいます。

 さて、力ずくでも若君を探し出せという清盛。これを知った若君は、

 「これほどの御大事に及び候ふ上、つひには遁れ候ふまじ。はやはや出ださせおはしませ」

 と自ら八条院に告げます。「こんな大ごとになっては逃げられません、六波羅へ行かせてください」と言う若君に八条院は、「七つ八つの子なんて聞き分けがないのが普通なのに、そんなことを言って…」と涙するばかり。そこへ頼盛が重ねて若君の引き渡しを要求するので、泣く泣く出発させたのでした。

 そして六波羅に連れて来られた若宮。すると彼を一目見た宗盛が、父清盛にこう進言します。

 「前世のことにや候ふらん。若宮をただ一目見参らせて候へば、あまりに御いたはしう思ひ参らせ候。何か苦しう候ふべき。この宮の御命をば、まげて宗盛に賜び候へかし」

 この若宮が不憫でならない、これは前世からの縁かもしれない。ここは目をつぶって、若宮を私に預けてください――と願い出る宗盛。清盛は若宮を出家させることを条件にこれを許します。

 宗盛が八条院にこのことを伝えると、若宮が殺されると思っていた八条院は出家に大賛成。「何のやうもあるべからず。ただ、とうとう」と、大急ぎで出家させ、若宮の首はつながりました。

 さて、高倉の宮謀反の一件で昇進したのが宗盛の長男・清宗。若干12歳でしたが三位に上り、「三位の侍従」と呼ばれます。昇進の理由は「源以仁ならびに三位の入道頼政父子追討の賞」。「源以仁」とは高倉の宮のことで、臣籍降下させられて源氏姓となったのでした。


 * * *

 この章で以仁王(高倉の宮)の乱が終了。宮が残した幼な子をめぐるドラマが描かれます。

 まずは若宮を迎えに来た頼盛に対する、八条院の対応がいい味出してます。子供たちをかくまいつつ、頼盛には「乳母がどこかに隠しちゃったのかしらねぇ~、私も知らないのよねぇ~」と、平然としらを切る。ここは毅然と立ちはだかる…というよりは、のらりくらりと対応しているイメージですね。このあたりの度胸というか、肝っ玉のすわりっぷりはさすが鳥羽院と美福門院の娘!という感じがします。

 それで頼盛はすごすごと六波羅へ戻ったら清盛に怒られてしまって、「八条院と仲がいいから」という理由で使いに選ばれた割には全然役に立ってないというこのダメさ(笑)。

 頼盛の要求をかわして若宮を守った八条院でしたが、その若宮が自ら「六波羅へ行く」と言い出します。8歳(満6、7)歳にしてこの言動。ただ者じゃないですよ、この子は…。そんな幼い年齢でありながら、自分の境遇を(おそらく直感的に)理解していて、周りの大人が守ろうとしているのを「無理です」と言う、というのが本当にいじらしくて、哀しい。その場にいる人たちの中でいちばん大人の発言をしているのが若宮なんです。

 で、次の見せ場が宗盛。清宗や副将丸など子供がらみの話で泣かせてくれるベストファーザー・宗盛ですが、他人の子まで愛しく思えるというのは本当に子供が好きなんですね。都落ちのときに維盛の子供のことを心配していたりする場面もそうなんですが、宗盛の子供好き描写はところどころにさりげなく入っています。こういうのいいな。

 若宮の命が助かったのは宗盛の訴えのおかげであって、頼盛は彼の助命に全く役立っていません。これでは八条院が頼盛を疎ましく思うのも道理です。八条院からすれば、日ごろ親しくしていたのに「この頼盛が若宮をお助けします」くらい言えないのか、たまたま宗盛が若宮を不憫に思ってくれたからよかったようなものの――といったところでしょう。このことが後に尾を引くことになります。

 最後に高倉の宮の臣籍降下と改名ですが、覚一本では「源茂仁、頼政法師父子追討の賞とぞ…」とあり、名前の字まで変えられてしまっています。うーん、気の毒。

 …と思ったら実際はもっと酷くて、皇族であることを示す「仁」の字も奪われて「源以光」にされたそうです。

 「山槐記」治承4年5月15日の記述に、

 「彼宮御名以仁也、而仁字有憚之由有沙汰、改仁字為光字被仰下云々、……」

 とあります。漢字のみで返り点がないので難しそうな気がしますが、字面を追っていけばだいたい意味は取れます。「その宮のお名前は『以仁』だが、『仁』の字は(皇族の名に使う字だから、謀反人の名前には)憚りがあるという沙汰があり、『仁』の字を改めて『光』とするように仰せ下された」ってことですね。

 以仁王のことを調べる過程で初めて「山槐記」を読んだのですが、翌5月16日の記事には、この章段に書かれている若宮を助ける助けないという一件のこともちゃんと記されていて、なかなか興味深い。
 「宮御子若宮八條院奉養、平納言(頼盛)、奉仰奉責、武士如雲如霞、数刻令■惜給、武士乱入門内、仍被出之、被奉寺宮(一院御子也)、即出家云々」

 で、この記述によれば、若宮を八条院が匿っていて、そこへ頼盛が行って引渡しを求めたという点は平家物語と一致するのですが、このとき既に武装した兵が八条院御所に来ていて、しばらくは八条院は引渡しを拒んでいたけれどそのうちに武士たちが邸内に乱入して若宮を連行し、後白河院の次男である仁和寺の守覚法親王(寺宮)に預けて出家させたということになっています。平家物語では若宮が自ら六波羅へ行くといったり、宗盛が若宮を乞い請けたりしているのですが、そこは「平家」作者の脚色なのかもしれません。

 どうでもいいのですが、「以仁王」という名前の小惑星があるそうです。いや、ほんと。
 宮はお星様になったんですね☆(おっ、きれいにまとまった!)
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by stan-nak | 2013-04-08 21:19 | 平家物語 巻四 | Comments(0)

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