一輪奏

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3 官軍方々手分の事 ~ 官軍召し集めらるる事

 【官軍方々手分の事】

 鳥羽院の崩御から3日後の保元元年7月5日、崇徳院が何やら企んでいるらしいという情報が後白河帝に伝わります。このため、武士たちに緊急招集がかかりました。下野守・源義朝や、平清盛の次男・基盛(もともり)などの武将たちが次々と内裏に参上します。

 少納言入道信西(しんぜい)が、「鳥羽院がお亡くなりになってから、新院が各国の武士たちを都へ呼び寄せていると聞く。武装して都へ入ろうとする者を、片っ端から捕らえよ」と命令。

 この信西という人物、突然出てきて武士たちに命令していますが、彼の妻である紀伊の二位という女性は後白河天皇の乳母です。したがって彼は後白河の育ての父のような存在で、非常に発言力があるんですね。「入道」とある通り、彼は出家した身。もとの名は藤原通憲(ふじわらの みちのり)といい、出家後の名前が信西です。

 「愚管抄」には「学生抜群の者」とあり、たいへん学のある人物だったようです。保元元年の時点で51歳(数え年)。後白河は30歳ですから、信西は頼れる重鎮といったところでしょうか。



 【親治等生捕らるる事】

 崇徳院の召集に応じて大和国から入洛しようとしていた源親治(みなもとの ちかはる)の軍勢が基盛と出くわし、突破しようとするも多勢に無勢。基盛も17歳ながら奮戦して親治を捕らえ、後白河帝を大いに感心させます。


 【新院御謀反露顕 並に調伏の事 附たり内府意見の事】

 7月8日、左大臣・頼長が僧に依頼して、後白河帝を呪詛させていた事が発覚。 これにより、頼長を流罪に処することが決定されます。

 新院はそれまで邸宅としていた鳥羽の田中殿から、白河の前斎院の御所へ移ります。京の南から北へ、かなり距離のある移動です。

 ※ ここでの「前斎院」は統子内親王(のちに院号宣下され、上西門院)。


 【新院為義を召さるる事 附たり鵜丸の事】

 源義朝の父・為義を味方につけようと、崇徳院は藤原教長を遣わします。
が、「私はもう年ですし、実戦の経験も乏しいですから」とこれを拒む為義。しかし熱心に説得され、ついに「では私の息子たちを遣わしましょう」と答えます。いわく、「長男の義朝は合戦に慣れていますが、あれは今上帝の警護に行ってしまいました。八男の為朝(ためとも)がお役に立てましょう」とのこと。

 やっと源平の武士が登場してきました。今までは貴族の話ばかりでしたが、ここからが本番です。

 父の為義いわく「力も人にすぐれ、弓も普通に越えて」いて、「あまりの乱暴者なのでとても都には住まわせておけず、九州に追い出した」という為朝とは、どんな人物なのでしょうか?もうまもなく、本人の登場です。


 【官軍召し集めらるる事】

 鳥羽院の遺誡(いかい≒遺書)が美福門院から内裏に届けられます。鳥羽院は自分の死後に皇位争いが起こることを予期しており、その場合に召集すべき武士たちの名を記していたのです。

 この中に、平清盛の名はありませんでした。というのも清盛の父の忠盛は重仁親王の傅(めのと)[]で、清盛と重仁親王は傅子(めのとご)の関係になるため、後白河帝と崇徳院が対立することになれば清盛は崇徳院側に付きたいだろうと、鳥羽院が気を利かせたのです。

 ところが美福門院は、「亡き鳥羽院の御遺誡に、あなたの名がありましたから」と偽って清盛を後白河陣営に引き入れます。武士の中では清盛が最も多くの軍勢を動かせたので、崇徳院側に付かれてはまずいと判断したのでしょう。後白河帝即位を後押しした得子、ここでも頭を使いました。

  「めのと」は「育てる人」のこと。「傅」と書くと教育係兼お守り役の男性、「乳母」と書くと文字通り授乳する女性。(ただ、「乳母」といっても授乳をしない単なる教育係の場合もあり。大納言典侍がその例。)
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by stan-nak | 2013-03-22 14:30 | 保元物語 | Comments(0)

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