一輪奏

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小宰相

こざいしょう: 藤原憲方の娘。平通盛の妻。上西門院(後白河院の姉)の女房。通盛が一の谷で討ち死にしたことを知り、後を追って入水自殺した。(平家物語巻九「小宰相の事」)

 平家物語によれば、「禁中一の美人」です。

 「禁中一」かどうかはともかくとしても、その容姿が際立っていたことは確かです。「建礼門院右京大夫集」にも「小宰相殿といひし人の、鬢(びん)・額のかかりまで、殊に目にとまりしを、……」とあり、人目を引く美貌を備えていたことが分かります。

 当然、言い寄る男も多かったようで、前出の「右京大夫集」の引用部分の続きには、

 「年ごろ心かけていひける人の、通盛の朝臣に取られて、嘆くと聞きし、げに思ふも理(ことわり)とおぼえしかば、……」とあります。「年ごろ心かけていひける人」が誰なのかははっきり書かれていませんが、その人物が小宰相のことを好きで、でも通盛と結婚してしまったのでがっかり。それを聞いた右京大夫は「あれだけきれいな人なら、そりゃ嘆くわよね」と同情…という一節です。

 ただ、この「げに思ふも理(ことわり)」の解釈もいろいろで、「小宰相さんくらいの美人なら誰だって求婚したくなるわね」という意味にもとれるし、「大していい男でもない、純朴だけが取り柄みたいな通盛さんにあんな美人を持っていかれたら、そりゃあガッカリでしょう」とも取れるんです。というのも、通盛はどの文献にも見た目に関する記述がないことから、まあおそらく十人並。その通盛に負けたとなれば、そりゃヘコみますわな。

 さて小宰相と通盛の年令ですが、手がかりは2つ。まず、平家物語の「通盛三十になるまで、子と云ふものもなかりつるに」という通盛の台詞と、「この女房(=小宰相)十六と申しし安元の春の頃、……通盛の卿、その頃は未だ中宮亮にて……」という記述です。まず前者を信じるなら、一の谷の合戦の時点で通盛は30歳(満28~9歳)。

 そして後者の記述ですが、これが朝廷の人事異動の記録「公卿補任」の記述と微妙に食い違っているのでまたややこしい。「公卿補任」を見ると、通盛が中宮亮に任じられたのは治承3年(1179年)のこと。安元年間(1175~77年)はまだ越前守なんですね。これを信用して、2人が出会ったのを仮に治承3年とすると、そのとき小宰相16歳。結婚したのは3年後の寿永元年ということになり、通盛28歳、小宰相19歳。中宮亮なら女官たちと顔を会わせることも多いでしょうから、そのときに小宰相を見初めたというのはおそらく本当でしょう。で、小宰相は享年21歳(満19~20歳)。もう2、3年ずれる可能性はあるとしても、20歳そこそこといったところでしょう。

 3年も通盛を無視し続けていたあたり、小宰相的に通盛はいい男とは思えなかったということでしょうか。確かに美男という評判もないし、重衡のように明朗快活なムードメーカーというわけでもない、おっとりとした(悪く言えばトロい)単なる「いい人」ですからね。でも結局、結婚相手には通盛みたいな人がいちばんいいのかもしれない。だからこそ結婚後は2人の間にはしっかり信頼関係ができて、通盛以外の男性は考えられないとまで思うようになったんでしょう。

 小宰相は入水したあといったん引き上げられるのですが既に虫の息で、程なくして帰らぬ人となってしまうのですが、マウストゥマウスで人工呼吸していれば、あるいは…とか思ってしまうのは私だけでしょうか。ああもう、なんで誰もライフセービングの免許持ってなかったんだ!

というのは冗談ですが、真面目に考えると入水したのは3月初め(旧暦2月14日)の明け方ですから、当然海は冷たいです。凍えます。小宰相は溺れ死んだというよりは凍死だったのではないでしょうか。

 それにしても小宰相、引き上げられたときは白い着物と袴がびしょびしょになって体にぺたーっと張り付いていたわけで、すごいヤラシイ図ですよ。そこに通盛の鎧を着せるんだから、ちぐはぐといえばちぐはぐ。でも、美しいとも思う。
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by stan-nak | 2013-03-12 11:44 | 人物考―平家 | Comments(0)

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