一輪奏

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平治の乱を整理する。

 「信頼信西不快の事」の最後で、「平治物語は平治の乱の全体像を説明していない」ということを書きました。じゃあその「説明していない」部分って何よ?ということで、私なりに書いてみます。

 1156年の保元の乱で崇徳院方が敗れ、後白河天皇方が勝利しました。

 ところが後白河帝は1158年に退位。長男の守仁が即位して二条帝となります。というのも近衛帝が死去した際、候補に挙がっていたのがもともと守仁であり、後白河帝は「子が親を飛び越えて即位するのはおかしいから」という理由で一時的に皇位につけられたに過ぎなかったからです。

 当初の予定通りに二条帝の御世になって、よかったね、となりそうですが、そうすんなりとはいきません。二条帝が親政を行うのか、後白河院が院政を行うのかという問題が出てきてしまったのです。

 二条帝の縁者たちは、当然親政を主張します。その中心が、帝の母方の叔父である藤原経宗と、帝の乳母子の藤原惟方。彼らには、「そもそも亡き鳥羽院のご遺志がそうだったのだから」という大義名分がありました。

(二条帝と藤原経宗の関係については、閑院流の記事をご覧ください)

 彼らが敵視したのが、後白河院政派の信西です。ちょうどその頃、後白河院の寵臣だった藤原信頼が何かと信西と対立していました。二条親政派は信頼、さらに源義朝を巻きこんでクーデターを起こし、信西を殺害。信頼はこれで官位が思いのままになると思って喜んだようです。

 しかし二条親政派はもともと、後白河院政派の人間はみんな邪魔だったのです。信頼とは「信西が邪魔」という点で一致していただけなので、信西を消したところで彼らの連携は崩壊します。経宗と惟方は、幽閉されていた二条帝を平清盛のもとへ逃がし、後白河院も仁和寺へ逃がすことに成功。信頼・義朝は何の大義名分もない賊軍に転落し、かといって今さら投降することもできず、散り散りになって討たれていきました。

 平治物語が(意図してかせずか)きちんと書いていないのは、この二条親政派の行動。平治の乱はむしろ、親政派の経宗と惟方が信頼・義朝をけしかけて起こしたといってもいいようなものですが、平治物語ではなぜか信頼が信西排除を考えて乱を起こしたという書き方をしています。つまり首謀者が経宗・惟方から信頼にすり替わっているわけです。その理由についてはいろいろな考えがあると思いますが、ラストで落命する信頼にすべての非難を集中させて、おしまい、という分かりやすい構成にするためかもしれません。

 ともあれ、平治物語を読み進めていく際には、「後白河院政派と二条親政派の対立」という構図を頭に入れておくと、分かりやすくなります。
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by stan-nak | 2013-03-09 19:52 | 平治物語 | Comments(0)

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