一輪奏

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閑院流

 院政期を語る上で外せないのが、閑院流(かんいんりゅう)という家系です。どういう血筋かざっくりと掴むため、まずは男性のみの系図を描くと以下のようになります。 一番上の藤原師輔(もろすけ)は、有名な道長の祖父。その子の公季(きんすえ、957~1029)が閑院と称したため、以後の子孫が閑院流と呼ばれるようになりました。下の方へ見ていくと、平安末期に三条家・西園寺家・徳大寺家に分かれます。幕末~明治に活躍する三条実美は、この三条家の出身です。「実」(さね)の字が連綿と受け継がれています。

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 というのが閑院流の概観ですが、この家系は院政期に王家と何重もの婚姻を重ねたというのがポイント。したがって、女性たちを加えた系図を見ないと、それが分かりません。というわけで下の系図をどうぞ。

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 まず、公成の娘の茂子が後三条天皇の后となり、のちに白河帝となる貞仁を産みます。白河帝は村上源氏の賢子との間に堀河帝をもうけ、その后となったのが再び閑院流の苡子。彼女が鳥羽帝を産み、その后がやはり閑院流の璋子(たまこ/しょうし、1101~1145)。いとこ同士の結婚です。鳥羽院と璋子の間に生まれた後白河院は、懿子との間に二条帝をもうけます。再び、いとこ同士の結婚。

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 この懿子の父が摂関家傍流の経実で、同母弟に経宗がいたため、経宗は二条帝が即位すると天皇の叔父として親政を後押し。後白河院政を実質的に動かしていた信西が邪魔になり、平治の乱へとなだれ込んでいきます。

 そして二条帝は閑院流から育子(のぶこ?/いくし、1147~1173)・多子(まさるこ/たし、1140~1201)という二人の女性を后に迎えるのですが、正直もう閑院流はやめたほうが…と思えてきます。この人たち、血、濃すぎです。閑院流のDNA濃縮還元200%みたいな話です。

 多子はまだ幼かった頃から頼長の養女となり、近衛天皇に入内。しかし帝が早世したため独身となっていたところを、美貌の噂を聞いたものか、二条帝から求婚されたという経緯がありました(平家物語巻一「二代の后の事」)。2人の天皇と結婚したのは後にも先にも彼女だけ。しかし二条帝も早世したため、またも未亡人となってしまいました。

 育子は藤原忠通の養女となって時の天皇に入内したという点で、呈子(九条院)と似た境遇と言えます。子供は授かりませんでしたが六条天皇の養母となったため、国母の地位を手にしています。が、27歳の若さで他界。

 そして後白河院はもう一人、閑院流の女性を妻としました。季成の娘の成子ですが、彼女もやはり璋子の姪ということで、これもいとこ同士の結婚となります。成子が生んだのが、後に平家に対して謀反を起こす以仁(もちひと、1151~1180)です。一つ前の系図を見ると、以仁と多子が又いとこの関係にあることが分かります。「平家物語」で、多子がこっそり以仁の支援をしていたのも納得です。

 系図には書ききれませんでしたが、以仁の同母の妹が、歌人として知られる式子(のりこ/しきし・しょくし)内親王(1153ごろ~1201)。賀茂の斎院を務め、生涯独身でした。建礼門院右京大夫集に「大炊の御門(みかど)の斎院」として登場する女性です。「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」という恋の歌が小倉百人一首に採られています。
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by stan-nak | 2013-03-09 16:12 | 人物考―宮廷 | Comments(0)

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