一輪奏

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源為義

「口をしきかな。為義ほどの者を、謀らずとも討たせよかし」

みなもと の ためよし : 永長元(1096)年生まれ。父は源義親、母は未詳。祖父は源義家。平忠盛と同い年。14歳のときに叔父の義綱を捕らえた功により左兵衛尉に任ぜられる。最終官位は従五位下検非違使尉、通称「六条の判官(ほうがん)」。
 やたらと子沢山で、「保元物語」によれば男女合わせて42人の子供がいる(アラブの石油王か?)。長男に義朝(よしとも)、次男に義賢(よしかた)、八男に為朝(ためとも)、十男に行家(ゆきいえ)。末っ子ブラザーズは乙若丸、鶴若丸、亀若丸、天王丸。

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 父の義親は八幡太郎・義家の嫡男でしたが、任地の対馬で略奪をしたために、嘉承3(1108)年に平正盛に追討されます(詳細)。代わって嫡男の地位についたのが、義親の弟の義忠であり、その後継に定められたのが義親の四男・為義でした。

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 嫡流が定まって一段落と思いきや、義親追討の翌1109年、義忠は郎等に殺されてしまいます。これを指示した犯人として義忠のいとこ、義明の乳母夫に嫌疑がかかりますが、乳母夫は義明とともに検非違使を迎え撃ち、戦った末に自害。義明の父・義綱は何を思ったものか、京を脱出して東国へと出奔します。14歳の為義は義綱を追い、捕らえることに成功。義綱は無断で京を出たことを咎められて佐渡へ流され、為義は叔父を捕縛した功績で左兵衛尉に叙されました。しかし結局、義忠殺害の真犯人は藪の中。この事件で嫡子候補が何人も死亡し、源氏の棟梁の重責が年若い為義に回ってきたのです。

 棟梁となった為義は当初、幼い鳥羽天皇の警護を白河院から命じられるなど、信頼を受けていたようです。ところが、徐々にその思慮のなさを露呈し始めました。京の治安を守る検非違使でありながら、殺人犯や強盗犯を自宅にかくまう、出獄した武士の帰属をめぐって親戚と合戦する、貴族を逮捕して路上で髪を乱させたら全くの誤認だった…など、次々と失態を犯してしまうのです。当時の貴族には「為義が作法、児戯のごとし」と嘆息される始末でした。元木泰雄氏は「河内源氏」(中公新書)の中で、「若くして河内源氏当主となった為義は、父祖から厳しい鍛錬を受けることがなかったこともあって、武骨で軽率な性格を克服できなかった」と見ています。こうした不祥事で為義は白河院の信頼を失い、同年の平忠盛との官位の差は開くばかりでした。

 行き詰まっていた為義を拾ったのが、摂関家の藤原忠実です。忠実は摂関家領荘園の集積を進めており、その管理に当たる武士が必要でした。忠実に臣従したことで為義はようやく従五位下の位階を得、のちに次男の頼長とも主従関係を結びます。こうした密な関係から、為義とその三男以下の息子たちは保元の乱で新院・頼長側につき、破滅への道をたどったのです。

 乱ののち、義朝は朝廷に父の助命を願い出ますが許されず、為義は斬首に処されました。

 なお、上の系図からも分かるように為義は八幡太郎・義家の孫であり、捕らえた義綱は為義からすると大叔父です。しかし保元物語では、為義の子(つまり義家のひ孫)であるはずの為朝が「義家の孫」と名乗っていますし、義綱も為義の叔父ということになっています。これはどこかの時点で為義が義家の養子となったためと考えられますが、義親の死後に為義が義忠の後継に定まった時なのか、それ以前から義家の子となっていたのかは明らかではありません。

 参考文献:  元木泰雄「河内源氏」(中公新書、2011年)
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by stan-nak | 2013-03-07 21:23 | 人物考―源氏 | Comments(0)

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