一輪奏

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2 新院御謀反思し召し立つ事

 この章段では、キーパーソンとして藤原頼長が登場します。この人、藤原忠実(ただざね)の息子で、左大臣(とても偉い)。兄の忠通は関白(もっと偉い)という超エリートです。

 「宇治の左大臣頼長と申すは、知足院の禅閤(ぜんかふ)殿下忠実公の三男にておはします。入道殿の公達の御中に、ことさら愛子(あいし)にてましましけり。」

 父・忠実に寵愛されていたことがはっきりと書かれている頼長。よっぽどネコ可愛がりだったんでしょう。

 「人柄も左右に及ばぬ上、和漢ともに人にすぐれ、礼儀を調へ、自他の記録に暗からず。文才世に知られ、諸道に浅深をさぐる。朝家の重臣、摂(せつ)ろくの器量なり。」

 摂ろく=摂政。頼長、ベタ褒め。文句なしに「デキる男」だったんですね。ただし人柄の方は、この後に出てきますが、かなり気性が激しかったようです。

 「されば御兄(おんせうと)の法性寺殿の詩歌に巧みにて、御手跡のうつくしくおはしますをば誹(そし)り申させ給ひて、『詩歌は楽しみの中のもてあそびなり、朝家の要事にあらず。手跡は一旦の興なり、賢臣必ずしもこれを好むべからず』とて、……とこしなへに学窓にこもって、仁義礼智信をただしくし、賞罰勲功をわかち給ひ、政務きりとほしにして、上下の善悪を糺(ただ)されければ、時の人『悪左大臣』とぞ申しける。」

 長兄の忠通(法性寺殿)は詩歌・書道が得意だったのですが、これを頼長は

 「歌や書やて、暇人の道楽やないか。主上にお仕えするもんの嗜むことやないわ。そないなもんにうつつ抜かしてはる関白さんは、よっぽどお暇であらしゃいますのやろ」

 と一蹴。(きょ、京都弁ネイティブの方、すみません…!「あらしゃいます」を使ってみたかっただけです。)自分のほうが兄より優秀であることを自覚しており、凡庸な忠通をバカにしていたようです。

 「世も是をもてなし奉り、禅定殿下も大切の人に思し召しけり。久安六年九月廿六日、氏の長者に補し、同七年正月十九日、内覧の宣旨をかうぶらせ給ふ。『摂政、関白を差し置いて、三公内覧の宣旨、これぞ始めなる』と、人々かたぶき申されけれども、父の殿下の御はからひの上は、君もあながちに仰せらるる仔細もなし。」

 俊英の左大臣・頼長が可愛くて仕方がない父の忠実は、彼を藤原氏の長者(一門のリーダー。平家でいう清盛)に指名。さらに、内覧の宣旨も出させます。内覧というのは天皇に見せる文書をあらかじめ見てチェックする職のことで、権力が強かったんですね。関白・摂政は自動的に内覧になれるのですが、宣旨(天皇の命令)があれば左右大臣や内大臣でも内覧になれました。このとき近衛天皇は7歳なので、前太政大臣の忠実の強権で宣旨を出させたんでしょう。

 内覧だの長者だの、知らないと「???」な用語がこの辺は多いのですが、「次男を長男よりも愛した父が、長男の意向を無視して次男により強い権力を与えてしまった」くらいに思っておけば十分です。

 しかしこれでは、忠通の面子は丸潰れです。自分のほうが年長で、氏の長者で、官位の中では最高の関白の位にあるのに、弟のほうが可愛いからという理由で父に長者の資格を奪われ、名ばかりの関白にされてしまったのですから。しかも頼長は単に父に溺愛されているだけでなく、自他共に認める超・優秀な人材。そのことは忠通も分かっていたでしょうから、よけいに自分が情けなく思えたことでしょう。

 兄弟で対立するなんて…と思ってしまいますが、忠通と頼長は異母兄弟なので、そもそも一緒には育っておらず、現代の人間が思うほど親近感はなかったはずです(当時は、子供は母親の元で育てられる)。おまけに、忠通は1097年生まれ、頼長は1120年生まれですから、年の差は実に23歳。親子ほども離れているのです。これでは兄弟だといわれても、そんな実感は持てませなんだろう。

 さらに、彼らの父・忠実は1078年生まれなので、頼長が長者になった久安6年(1150年)の時点で忠実72歳、忠通53歳、頼長30歳(いずれも満年齢)。これはどう考えても、孫ほどの年の次男が可愛いということしか頭にない忠実が頼長を甘やかし、頼長も老いた父の盲目の愛を利用したとしか思えません。というと頼長が人でなしのようですが、当時の年齢感覚からすると53歳なんていつ隠居してもおかしくないはずです。その忠通が関白の座にいるのが邪魔としか思えなかったとしても、分からなくはない話です。しかも頼長の場合は、自分のほうが政治の才覚があることを誰もが認めているのですから尚更です。

 さてその後、鳥羽院が他界。頼長を疎んじて内覧の職を奪ったにっくき鳥羽院がいなくなり、頼長に絶好のチャンスが訪れます。

 「左大臣思し召しけるは、『一院隠れさせ給ひぬ。いま新院の一の宮・重仁親王を位に付け奉って、天下を我がままに執り行はばや』と思ひ立ち給ひければ、常に新院に参り、御宿直(おんとのい)ありければ、上皇もこの大臣を深く御頼みあって、仰せ合はせらるる事ねんごろなり。」

 「今こそ後白河帝を排除して重仁親王を即位させ、その補佐役(摂政)に自分がなれば世の中は思いのままだー!」と思い立った頼長は、重仁の父・崇徳院に接近。足繁く崇徳のもとに通ってその信頼を獲得し、重要なことがらも相談を受けるようになります。そして遂に、崇徳はこの話題を持ち出します。

 「或る夜新院、左大臣殿に仰せられけるは、『……重仁こそ人数(ひとかず)に入るべきところに、文にもあらず武にもあらぬ四の宮に位を越えられて、父子ともに愁へに沈む。しかりといへども、故院おはしましつるほどは、力なく二年(ふたとせ)の春秋を送れり。いま旧院登霞(とうか)の後は、我天下を奪はんこと、何の憚りかあるべき。定めて神慮にもかなひ、人望にも背かじものを』と仰せられければ、左府、もとよりこの君、世を取らせ給はば、我が身摂ろくにおいては疑ひなしと喜びて、『もっとも思し召し立つところ然るべし』とぞ勧め申されける。」

 「何の才もない雅仁に天皇の座を持っていかれて不満たらたらだったが、鳥羽院の存命の間は仕方ないから黙っていた。もう鳥羽院はいないのだ、誰に遠慮することがあろう。重仁が即位するほうが、世のためにもいいに決まっている」と、反・後白河の意向を明らかにする崇徳院。(既に即位している雅仁を崇徳院は「四の宮」と呼び続けているあたり、「後白河天皇」を認めたくないのが良く分かります。)
 この争いに崇徳院が勝って重仁が即位すれば自分が摂政になれるのは確実と思っていた頼長は、待ってましたとばかりに「まったくもってその通りです」と大賛成。

 ここに2人の利害が一致し、崇徳院と悪左府・頼長が手を結んだのでした。

 ◇ ◇ ◇

 ここまでが、保元の乱の原因です。重仁の即位を妨げた鳥羽院がいなくなった今、崇徳院(新院)と頼長は打倒・後白河帝のために兵を起こすのです。
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by stan-nak | 2013-03-06 23:21 | 保元物語 | Comments(0)

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