一輪奏

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1 信頼信西不快の事

 まずは役者の登場です。

 「ここに近ごろ、権中納言兼中宮権大夫右衛門督藤原朝臣信頼といふ人ありき。」

 な、長い。「権中納言兼中宮権大夫右衛門督」(ごんのちゅうなごん・けん・ちゅうぐうのごんのだいぶ・うえもんのかみ)が官職名です。3つの役職を兼任しているということですね。

 その後の「藤原朝臣信頼卿」(ふじわらのあそん のぶよりのきょう)というのが名前で、「朝臣」と「卿」は偉さを表す記号のようなものなので気にしなくていいです。つまり、権中納言と中宮権大夫と右衛門督を兼任している藤原信頼さん、ということです。

 「中の関白道隆の八代の後胤(こういん)、播磨の三位基隆が孫、伊予の三位忠隆が子なり。」

 次にご先祖が紹介されます。道隆っていうのは、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」とかいう傲慢きわまりない歌を詠んで浮かれていた藤原道長のお兄さんです。だから血筋は悪くありません。

 (ちなみに、この道長の直系の血筋が藤原氏の中で最もグレードが高い。この家系から忠実・忠通・頼長が出ています。頼長の昇進がありえない早さだったのはそのせい。)

 「しかれども文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし。」

 登場から3行目で何という言われようでしょうか。

 作者の毒舌炸裂が早すぎます。

 ひどい言われようの信頼ですが、27歳にして例を見ないほどの昇進に預かり、それでも飽き足らずに大将、果ては大臣の位まで望んでいたというのです。

 とはいえ貴族たちが日々権力争いにしのぎを削る京の都、そうは問屋がおろしません。

 「その頃、少納言入道信西といふ者あり。」

 あての目の黒いうちは信頼なんぞに好き勝手はさせまへん!と立ちはだかったのが信西(しんぜい)。保元の乱でも活躍していた、あのおじさんです。時の天皇・後白河(雅仁)の乳母(紀伊の二位、本名藤原朝子)の夫という地位を利用して政務を一手に握り、実質的な最高権力者になろうとしていました。

 1155年に29歳で即位した後白河帝でしたが、わずか3年後の保元3年(1158年)に退位。16歳の長男・守仁(もりひと)に譲位して二条天皇とします。当然、院政が行われ、二条帝は位についたものの実権は後白河上皇が握っていました。

 「信西が権威もいよいよ威をふるひて、飛ぶ鳥も落ち、草木もなびくばかりなり。また信頼の卿の寵愛も、なほいやめづらかにして、肩を並ぶる人もなし。されば両雄は必ず争ふ習ひなる上、いかなる天魔か二人の心に入りかはりけん、そのなか悪しくして、ことに触れて不快のよし聞こえけり。」

 上皇となった後白河を操ろうとする信西と、上皇に取り入って権力の座を狙う信頼。二人ともに後白河は気に入っており、この二人の発言力が増せば増すほど、いずれ二人が衝突するのは避けられない事態でした。

 そんなあるとき、信西は後白河院から「信頼が近衛大将になりたいと言っているのだが、どう思う」と相談されます。近衛大将といえば大納言のさらに上の官職で、その上には内大臣・右大臣・左大臣くらいしか残っていません。当然、信西は猛反対です。

 「信頼などが大将になりなば、誰か望みをかけ候はざらん。世の乱るる端なり」(信頼なんかが大将になろうものなら、誰もが我も我もと昇進を期待するに決まっています。秩序の乱れるもとです)と、家柄の対して良くない者にそんな異例の抜擢をすべきでないと主張。

 そして、信西のこの発言が信頼の耳に入ってしまいます(後白河院の寝所で伝わったのでしょうか)。かねてから信西を煙たく思っていた信頼は、いよいよ本格的に信西打倒を企てることになるのです。

 ◇ ◇ ◇

 始まりました平治物語。

 この物語が書く平治の乱の発端は、少納言入道・信西(俗名:藤原通憲)と右衛門督・藤原信頼の勢力争いです。

 後白河院に「寵愛」されていたという信頼ですが、「愚管抄」にも「あさましき程に御寵愛ありけり」(巻五)という記述が確認できるので事実に間違いないでしょう。では、「寵愛」とは具体的にはどういうことでしょうか。ヒントとして、藤原成親と後白河院の関係があります。成親も後白河院に「寵愛」されていたという記述が「平家物語」に出てきますが、それは「男色の相手として可愛がられていた」ということだった、というのはすでに書きました。

 そう、後白河院は男色家だったのです。そんな人が若い男性を「寵愛」していると書いてあれば、その意味するところは性的関係にほかなりません。

 つまり信西と信頼の対立というのは、信西が後白河院を傀儡にして政治の実権を握ろうとしていたのに、後白河が男色相手として気に入った信頼に我がまま勝手を許し始めたために信頼が邪魔になった、ということです。

 「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と遠慮もなく書かれるほど何の才もなかった信頼なんかをなぜ後白河が気に入ったかということですが、「類は友を呼ぶ」という現象ではないでしょうか。後白河自身、「文にもあらず武にもあらぬ」と兄の崇徳院から言われ、周囲の思惑で天皇の座についたときも「即位の御器量にはあらず」と鳥羽院が思ったほどのバカだったからです。

 思うに、後白河の養父の信西は確信犯で彼をバカに育てたんじゃないでしょうか。将来、自分が傀儡として使えるように。だって、「学生(がくしょう)抜群の者」「当世無双の宏才博覧」と言われるほど英明の誉れ高い信西が真剣に育て上げたら、絶対優秀な人になると思うんですよ。それがこんなに能無しだというのは、信西がわざとそうしたとしか思えません。

 ところがバカに育った後白河は色に耽って、その相手だというだけでとんとん拍子に昇進させてもらった信頼が信西の権勢を脅かすまでになってしまう。信西は「育て方、間違えたかも…」と思ったかもしれません。とはいえ賢く育てたら傀儡にならないんですから、悩ましいところです。

 信頼は作者に「藤原道隆の子孫でありながら何の能もなく…」と言われている一方で、信西には「大した家柄でない」と言われており、それは後白河も認めています。では信頼の血筋っていいのか悪いのか?ということで「尊卑分脈」を見てみると、確かに道隆から数えて8代目の末裔にあたるのですが、嫡流からはだいぶ離れており、傍流の傍流のそのまた傍流みたいな人です。したがって、エリート家系の生まれとは言い難い。「平治」作者が「道隆の子孫なのに」と書いているのは、そのあとの「しかれども文にもあらず…」を際立たせるためなのでしょう。

 …と説明してきましたが、実はこの平治物語の冒頭の章段は、平治の乱が起こった経緯を説明しているようで、全体像の十分な説明にはなっていません

 そのあたりを、こちらの記事で説明してみようと思います。
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by stan-nak | 2013-03-06 00:23 | 平治物語 | Comments(0)

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