一輪奏

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海を渡った平家物語

 ロンドンは大英図書館に、全編ローマ字で書かれた「平家物語」があります。

 その表紙には、

 NIFON NO COTOBA TO Historia uo narai xiran to FOSSVRV FITO NO TAMENI XEVA NI YAVARAGVETARV FEIQE NO MONOGATARI.

 とあり、「日本の言葉とイストリアを習い知らんと欲する人のために世話に和らげたる平家の物語」 と読むことができます()。本文はと見てみれば、かの有名な「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」という名文句は見当たらず、2人の人物のこんなやり取りで始まっています。

 「検校の坊、平家の由来が聞きたいほどに、あらあら略してお語りあれ。」
 「やすいことでござる。おおかた語りまらしょうず。」

 この「検校の坊」と呼ばれる、琵琶法師らしい人物が平家物語を語り出します。そこでは源平の人々が「ござる」や「おじゃる」を盛んに使って会話しており、よく知られた「平家物語」の「候ふ」が頻出する文体とはずいぶん印象が違います。

 これは一体何かと言うので表紙に戻ると、

 「ゼズスのコンパニヤのコレジヨ天草において、スペリオーレスの御免許として、これを版に刻むものなり」

 とあり、ローマ数字で「1592」と記されています。「ゼズスのコンパニヤ」とはイエズス会のこと。イエズス会が学校(コレジオ)を置いていた天草で、1592年に出版された書物です。

 1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して以来、スペインやポルトガル、イタリアから、宣教師が続々と日本にやってきました。有名どころではルイス・フロイス(1563年来日)、オルガンティノ(1570年来日)、ヴァリニャーノ(1579年初来日)……などなど。しかし、ヨーロッパの言語と日本語は大きく異なるため、来日した外国人宣教師たちは日本語の習得に精を出さねばなりませんでした。布教に説法が欠かせないのはどの宗教でも共通ですが、キリスト教では司祭が信者の告解(懺悔、confession。キリシタン用語ではコンヒサンと言った)を聴くことに大きな意味があったからです。

 そこで取られた方法が、日本の文学作品を教材として日本語を学ぶというもの。日本の歴史も同時に学べる作品として、「平家物語」が選ばれました。

 とはいえ、鎌倉時代に書かれたこの作品は、16世紀末の時点で成立から350年以上が経過し、すっかり古典と化していました。それを口語に書き換える「現代語訳」を、日本人修道士(イルマン)の不干(ふかん)ハビアンという青年が任されます。

 訳に当たっては、「両人相対して雑談(ぞうたん)をなすがごとく(二人が向かい合って会話するように)」という指示が出されました。日本語学習の目的は「会話できるようになること」だからです。そこでハビアンは、「右馬允」なる人物が平家のあらましを喜一(きいち)という琵琶法師に尋ね、喜一がそれに答えるという問答形式を取りました。名前に「一」の字がついていることから、一方流の琵琶法師という設定なのが分かります。

 さらに、イエズス会の書物には必要ないということなのか、仏教に関係する記述は除かれました。このため、平家物語の代名詞と言ってもいい「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」という冒頭の名文句はばっさり削除されました。

 こうして1592年、全編ローマ字で書かれ、16世紀の日本語で語られる「平家物語」が出版されました。印刷機は、天正遣欧使節の帰国に伴って再来日したヴァリニャーノが日本に持ち込んだもの。天草で印刷されたこの「平家」は「天草版平家物語」とも「キリシタン版平家物語」とも呼ばれます。きっと多くの外国人宣教師が、この本を声に出して読み、日本語を身につけていったのでしょう。そのたびにキヨモリ、シゲモリ、ヨシツネといった源平の人々の名が、彼らの口にのぼったかと思うと、なんだかうれしい気がします。

 天草版平家物語は日本だけで読まれることはなく、宣教師や貿易商人の移動とともに国外へと渡っていき、どこでどういう経緯を経たか、現在世界にただ1冊、大英図書館に保管されています。

 【ハビアンのこと】

 不干ハビアン、不干斎ハビアンなどと呼ばれるこの人物は、1565年ごろの生まれ。初めは禅僧でしたが、1583年にキリシタンとなり、ハビアン(Fabian)という洗礼名を与えられました。

 天草版平家物語を著したハビアンはその後、「妙貞問答」という教理書を執筆します。これは神道や仏教、儒教をキリスト教と比較して、前者のおかしな点を突き、キリスト教の正しさを語るというもの。妙秀と幽貞という2人の女性の対話形式で書かれ、女性キリシタンの間でよく読まれました。

 こうして宣教師達の日本語習得や信徒の指導に貢献したハビアンですが、「妙貞問答」の執筆から3年後の1608年、イエズス会を脱会して棄教してしまいます。このとき、一人の修道女が一緒だったと伝わっていることから、棄教はこの女性と深い仲になったからだとか、あるいはいつまでも修道士に留められ、神父(パードレ、バテレン)になれず不満が募ったからだとか、様々な憶測がなされています。しかしどれも決め手がなく、答えは出ていません。

 そしてハビアンは1620年、キリシタン攻撃の書「破提宇子(はだいうす)」を世に送ります。イエズス会はこれを「地獄のペスト」と呼んで禁書としたそうですから、きっとハビアンは「古巣を攻撃する裏切り者、恩知らず」と映っていたのでしょう。

 とはいえ、「破提宇子」を書く際にも彼が依然として「ハビアン」という洗礼名を使い続けていた点は引っ掛かります。これを「実は信仰を捨てていなかった証拠」と考えることもできますが、真相は本人のみが知っている、といったところでしょうか。


 以下、完全に余談。

 ハビアンと接触し、「妙貞問答」執筆に大きく関わったと目されるのが清原いとという女性です。その洗礼名から清原マリアとも呼ばれるこの人物は、儒学・国学に通じた清原宣賢(きよはら のぶかた、1475~1550)を輩出した学者一族の娘です。宣賢の父は吉田神道を大成した吉田兼倶(よしだ かねとも、1435~1511)であり、「妙貞問答」には吉田神道に関して詳しい記述があることから、吉田神道の資料をハビアンに提供できる、16世紀末に生きていたキリシタンの人物――となると、いと一人に絞られるというわけです。

 …と書きましたが、彼女はむしろ「細川ガラシャの侍女」として有名でしょう。宣賢の娘が細川幽斎の生母で、その息子・忠興に嫁いで来たのが明智光秀の娘・玉。姻戚関係にあった縁で、いとがその侍女となり、玉のキリスト教入信につながっていきます。

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 玉(ガラシャ)を主人公とした小説には大抵いとがセットで出てきますが、名前はまちまちで、「細川ガラシャ夫人」(三浦綾子)では「佳代」、「朱なる十字架」(永井路子)では「大弐」とされています。「ハビアン 藍は藍よりいでて」(千草子)では元々「糸」だったけれど、本人の希望で「雪」に改名したという設定です。「いと」の名は作家の間で人気がないのだろうか…と思っていたら、「風の王国 官兵衛異聞」(葉室麟)ではそのまま「いと」とされ、「伽羅奢(ガラシャ)―いと女覚え書―」という一章も設けられています。実はこのタイトル、芥川龍之介が「糸女覚え書」という同名の短編を残しており、その踏襲と思われます。(が、芥川の「糸女」は糸という名のガラシャの侍女が主人公でありながら、清原いととは全くの別人。しかも、ガラシャは性格が悪く、見た目も大して美しくなかったという描き方で、ガラシャファンにはなかなか衝撃的ではないかと思います)。

 なんだか話がごちゃごちゃとしてきましたが、ガラシャとハビアンは2歳違うだけ(ハビアンが年下)という同世代。いとは生没年不明ですが、この2人とそう変わらなかったのではないでしょうか。ガラシャはなかなか外出できなかった(夫の忠興が嫉妬深かったため)と言われていますが、代わりに教会へ足を運んだいとが、才気走った修道士ハビアンと信仰について話し込み、またそのことをガラシャに話すこともあったのではないでしょうか。

 さらに言うと、再来年(2014年)のNHK大河ドラマは黒田孝高(如水、洗礼名シメオン)を主人公に据えた「軍師官兵衛」。孝高の息子・長政はハビアンよりも3歳年下でこれまた同世代であり、しかもハビアンは孝高の葬儀で追悼説教を行うという大役を務めています(1604年)。それくらい、イエズス会の中で高く評価されていたのでしょう。まさか一面識もない人物の追悼説教をするということはないでしょうから、生前の孝高とハビアンは何らかの形で交流があったのではないかと想像されます。これはもしかして、大河ドラマでハビアンを見ることができるのではないか…と、つい期待してしまうのです。…いえあの、「ない」ということは分かってはいるんですけど…ほぼ「ない」とは思っているんですけど…(2012年12月1日)

 história[イストリア]=ポルトガル語で「歴史」(hは発音しない)。英語のhistoryと同じです。


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by stan-nak | 2013-03-05 23:56 | 「平家」雑想 | Comments(0)

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